論壇
小・中学校で道徳が必須教科に
戸田市 福田 純
その昔「嘘つきは泥坊の始まり」と教えられ、育った。だが、ヒトは成長する過程で、嘘にも色々な嘘があることを学んだ。中でも〝人を騙すための嘘〟と〝自己保身の嘘〟だけは、つくべき嘘ではない、と肝に銘じられてきた。ところが、国の最高首脳者たちは国会の内外で嘘をつき、国民に謝るどころか「知らない・忘れた」を連発し、平然とだんまりを決め込み真実を語らない。こんな不道徳で非誠実な人たちが、道徳の授業を始めると決めた。
今年から小学校に於いて、来年から中学校にも必須科目になる。道徳を学ばせる目的として、支配層の人たちの中に(目上の人を敬う)所謂「素直で〝良い子〟を育てたい」との思惑が見て取れる。学校であれ社会であれ、自分たちに楯突く(意見する)者たちがいないほうがやり(扱い)易い、と考えてきた指導者がいた歴史がある。目上の指示や命令に従順に従うのが〝良い子〟として高い評価を下す先生たちがいた。今まで自分の頭で考えることなく、上意下達しか考えてこなかった教師や教頭たちを沢山見てきた。事なかれ主義を押し通し、いじめを見ていても、見て見ぬふりをし、いや、いじめに加担してきた教師たちも報道されている。そして、生徒が自殺してもなお、いじめを認めようとしない教師たちや教育委員会の面々、問題意識の欠如した彼らに道徳を語ることはおろか、一人の人間として児童・学生を正しく評価できるとは思えない。
今までも道徳の授業はあったが、教科の評価はなされていない。それが当然であろう。そもそも誰がどのような基準で多様な資質を持つ児童・学生を評価するというのであろうか?時代や国柄などの背景が異なれば当然、道徳的評価も違ってくる。
さて、今では立派な医師として、マスコミなど各方面でも活躍している「がんばらない」等沢山の著書もある諏訪中央病院名誉院長である鎌田實先生。彼が大学時代に全共闘に参加していた猛者であった話は有名である。目の前に横たわる大人の世界の理不尽さに義憤を感じ「義を見てせざるは勇なきなり」と純粋に行動した結果、気が付いた時には〝闘士〟となっていたのであろう。当時の彼の道徳的評価と昨今の評価とは大きく食い違うに違いない。道徳的評価とはかようなものであり、教師といえどもその人の将来まで見通せない中で、人を適切に評価することなど出来はしないと考える。眼前の難題を実直的に解決するその性格と行動力が現在の彼を彼たらしめていると考えることが出来よう。
一方、文科省は急速に変化する社会に人間が主体的・創造的に生き抜くためとして、新学習指導要領を変えた。自らの頭で考え、自己解決能力のある人になるような授業を取り入れる試みを見せている。自分の頭で考え、自ら意見を述べ、自らの意思で行動し、適切に課題を完結する人物を新しい世代に求めている。PDCA型人間の創出であろうか?
Plan(計画)・Do(実行)・Check(点検)・Action(改善)
新しい時代に求められる人物像として理解できるが、自分の頭で考え、きちんとした意見を述べる問題解決型人間と、学校でいう道徳的評価の高い、所謂〝いい子(素直で従順)〟とは相いれない。
また、平成30年から文科省は小学校1・2年生の教科書に道徳のシンボルとして二宮金次郎(尊徳)を掲載した。彼の引用には賛否両論がある。賛成論は「不遇な境遇でありながら勤勉を貫き、世のためになる仕事を成した」という見解で、それは政府与党が推し進めている〝働き方改革〟の方向性と一致している? との疑念もある。一方、反対論は彼の置かれた境遇は近年、国連を始め国際社会が根絶しようとしている「児童労働・児童虐待の容認であり、劣悪な環境は放置したまま、それへの忍従と勤労を強いる社会のシンボルである」と。これら両論ある中で、児童たちは教師の考えによりどのように評価されるのであろうか?
さらに「今どき?」という現代にそぐわない問題がある。年配者には二宮金次郎の「本を読みながら歩いている像」をご存知の方もおられよう。が、最近、スマホ操作中の「ながら運転」や「ながら歩行」が大きな社会問題になっている。そんな折、その「ながら歩き」の元祖とも言うべき二宮金次郎の引用は如何なものか? と私は思う。さらに残念なことに、今の日本の国会は「(嘘つき)泥坊=盗人にも三分の理」という輩に牛耳られている。
今年から小学校に於いて、来年から中学校にも必須科目になる。道徳を学ばせる目的として、支配層の人たちの中に(目上の人を敬う)所謂「素直で〝良い子〟を育てたい」との思惑が見て取れる。学校であれ社会であれ、自分たちに楯突く(意見する)者たちがいないほうがやり(扱い)易い、と考えてきた指導者がいた歴史がある。目上の指示や命令に従順に従うのが〝良い子〟として高い評価を下す先生たちがいた。今まで自分の頭で考えることなく、上意下達しか考えてこなかった教師や教頭たちを沢山見てきた。事なかれ主義を押し通し、いじめを見ていても、見て見ぬふりをし、いや、いじめに加担してきた教師たちも報道されている。そして、生徒が自殺してもなお、いじめを認めようとしない教師たちや教育委員会の面々、問題意識の欠如した彼らに道徳を語ることはおろか、一人の人間として児童・学生を正しく評価できるとは思えない。
今までも道徳の授業はあったが、教科の評価はなされていない。それが当然であろう。そもそも誰がどのような基準で多様な資質を持つ児童・学生を評価するというのであろうか?時代や国柄などの背景が異なれば当然、道徳的評価も違ってくる。
さて、今では立派な医師として、マスコミなど各方面でも活躍している「がんばらない」等沢山の著書もある諏訪中央病院名誉院長である鎌田實先生。彼が大学時代に全共闘に参加していた猛者であった話は有名である。目の前に横たわる大人の世界の理不尽さに義憤を感じ「義を見てせざるは勇なきなり」と純粋に行動した結果、気が付いた時には〝闘士〟となっていたのであろう。当時の彼の道徳的評価と昨今の評価とは大きく食い違うに違いない。道徳的評価とはかようなものであり、教師といえどもその人の将来まで見通せない中で、人を適切に評価することなど出来はしないと考える。眼前の難題を実直的に解決するその性格と行動力が現在の彼を彼たらしめていると考えることが出来よう。
一方、文科省は急速に変化する社会に人間が主体的・創造的に生き抜くためとして、新学習指導要領を変えた。自らの頭で考え、自己解決能力のある人になるような授業を取り入れる試みを見せている。自分の頭で考え、自ら意見を述べ、自らの意思で行動し、適切に課題を完結する人物を新しい世代に求めている。PDCA型人間の創出であろうか?
Plan(計画)・Do(実行)・Check(点検)・Action(改善)
新しい時代に求められる人物像として理解できるが、自分の頭で考え、きちんとした意見を述べる問題解決型人間と、学校でいう道徳的評価の高い、所謂〝いい子(素直で従順)〟とは相いれない。
また、平成30年から文科省は小学校1・2年生の教科書に道徳のシンボルとして二宮金次郎(尊徳)を掲載した。彼の引用には賛否両論がある。賛成論は「不遇な境遇でありながら勤勉を貫き、世のためになる仕事を成した」という見解で、それは政府与党が推し進めている〝働き方改革〟の方向性と一致している? との疑念もある。一方、反対論は彼の置かれた境遇は近年、国連を始め国際社会が根絶しようとしている「児童労働・児童虐待の容認であり、劣悪な環境は放置したまま、それへの忍従と勤労を強いる社会のシンボルである」と。これら両論ある中で、児童たちは教師の考えによりどのように評価されるのであろうか?
さらに「今どき?」という現代にそぐわない問題がある。年配者には二宮金次郎の「本を読みながら歩いている像」をご存知の方もおられよう。が、最近、スマホ操作中の「ながら運転」や「ながら歩行」が大きな社会問題になっている。そんな折、その「ながら歩き」の元祖とも言うべき二宮金次郎の引用は如何なものか? と私は思う。さらに残念なことに、今の日本の国会は「(嘘つき)泥坊=盗人にも三分の理」という輩に牛耳られている。