振り返る50年 初代理事長・父の記憶

富士見市 里村 淳
 私は2004年に当協会の理事に就任し、理事を退任してからは監事を言いつかっている。理事に就任してから毎年のように「論壇」の執筆を依頼されてきた。そこで、今回は保険医としての生活を振り返ってみたいと思う。
 私と保険医協会とのかかわりは意外と古く、当協会が設立された1972年。丁度、私が医学部の6年生の時。なぜか私の父親が初代の理事長に就任したのである。当時、会議はいまのビルではなく、北浦和のどこかの部屋を借りて開催していたと記憶している。父は一家団らんの時でも医療の問題、とりわけ保険医療の不合理を説いていた。「政府管掌」「薬価」「出来高払い」そしてなぜか「親方日の丸」などがキーワードであった。そのころの医療は薬を使わないと点数にならないという診療報酬体系だったからだ。私は興味深く聞いていただけでなく、診察室の隅に積んであった医療関係の雑誌などにいちおう目を通すのが日課であった。その頃、つまり50年位前の医学教育では、医療は保険医療であるという認識は薄く、学生実習の時に内科の教授が「諸君は(保険医療の制約などは気にしないで)自分が正しいと思ったことをやりなさい」と説いたことを憶えている。その後、医学教育でも保険診療への認識が問題になったことがあり、「療養担当規則」を知らない教授が多かったというエピソードがある。また当時、個別指導はかなり過酷で、リヤカーにレントゲンのフィルムを積んで個別指導の会場に赴いた話など、今では考えられないようなことが行われていた。保険医にとって個別指導は今でも注意を要するものだが、もし保険医協会の個別指導改善の運動がなかったら、今日、保険医の生活はたいへんなことになっていたと確信している。
 ところで目下「コロナ」「猛暑」「ウクライナ」「統一教会」など話題に事欠くことはないが、気になるのはロシアが振りかざした「核」である。核兵器は抑止を目的として政治的に利用される兵器であったのが恫喝に使われる段階に入った。核兵器廃絶はいうまでもないが、じつは、初代理事長の里村成章は「核」と意外な因縁があった。父は戦時中、陸軍軍医として広島の部隊に配属された。空襲が激しくなり、当時兄を身ごもっていた母親は父の田舎の新潟に疎開した。そして、昭和20年8月6日の広島への原爆投下の日はというと、数日前から九州に出張に行っており広島には不在であった。原爆投下後広島に戻って来た時、街は廃墟となっていた。市の中心部にあった部隊の司令部を探したが、建物は何もなく、司令官の部屋と思われる部屋の隅に時計のゼンマイが落ちており、それで司令部だと分かったという。その後は市内の病院で被災者の救護に当たることになったが、その最中に玉音放送を聞いたというから、広島に戻ったのは原爆投下後間もないころだったと思う。漢文訓読調の放送内容がよく理解できなかった人が多かったようで、漢文の素養のある父は放送内容を解説をしたらしい。最近、広島で被爆した高齢の患者にそのことを話したら、「たぶんあそこの病院だろう」と教えてくれた。父は軍医のため入隊した時から将校で、大尉で終戦を迎えた。大尉といえば高位であるため、軍隊生活は悪くなかったようである。軍隊での経験をなつかしく饒舌に語った父だったが、被爆者の惨状となると何も語ってくれなかった。病院に運び込まれ死んでいった被爆者の惨状などあらためて説明するまでもないが、たぶん、軍隊生活の思い出の延長としてはとうてい語れるようなものではなかったのであろう。広島の原爆の惨状を後世に伝える使命感から語り部の様に話す人がいる。否定などする気は毛頭ないが、複雑な気持ちになってしまう。

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