協会とともに歩んだ50年を振り返って

川口市  松本 光正
 私と埼玉県保険医協会の関係は50年程前まで遡ることができる古い古い付き合いであります。最初の出会いは私が医療生協さいたま浦和民主診療所に勤務を始めた1972年頃、同じ建物に協会の事務局長の机があり「月刊保団連」を目にしたことから始まるように思います。さらに上司が協会の創立者の一人である肥田舜太郎先生だったことが私と協会を結びつける決定的要因になりました。ある時、多分1975年頃、肥田先生が理事会に代わりに出るように頼んで来られました。私は断る理由もないので出席し、その後も何回か頼まれるうちに、いつの間にか理事会に入っていたようです。今思うとかなり乱暴な、またのんびりした時代ですね。
 最初の頃は北浦和の加茂先生(耳鼻科)の自宅の離れで理事会が行われていましたが、そのうち近くの産婦人科の先生のお宅で開かれるようになりました。その後、埼玉大学近くのマンションの一室に事務所を移しました。当時の理事会は夜8時から始まり12時頃、時には午前1時頃まで議論することも珍しくありませんでした。その後、北浦和の現在の事務所の直ぐ近くに移転し現在に至っています。
 当時は少ない理事人数でありましたが、北浦和駅や浦和駅に白衣姿で立って署名活動をしたり、ビラ配りをしたものです。国保連合会の事務所で激しいやりとりをしたこともありました。
 私の主な活動は研究部だったと思います。抗生物質の使い方、麻薬の使い方、他科のための皮膚科学、整形外科、細菌学の話題等々単発の研究会を数多く企画し開きました。多いときは150人を超える会員が集まりました。また、月例の研究会、「胸部レントゲンを見る会」を上尾市内のスズケンの会議室で立ち上げたり、「胃のレントゲン写真、内視鏡の勉強会」を浦和のホテルで開催していました。また「催眠療法」という異色の研究会を協会の会議室で2年余り連続して開催していたこともあります。これも大盛況の研究会でした。その中でも胸の勉強会は「個別症例相談会」と名を変え今も続いており40年程になるでしょうか。さらに「協会の医局」と称して日常の疑問点を持ち寄る勉強会も開催していました。これらの勉強会は多くの会員に喜ばれましたが、一番勉強になったのは私自身です。診療の幅がひろがり心から感謝です。
 私自身が講師をした勉強会もありました。越谷市で「初心者のための漢方薬」を開催しました。講師と言えば「新点数改定説明会」の講師をしたこともありました。今のような複雑な点数ではなかったので私にもできたのでしょう。また、協会の新聞に「埼玉の食べ歩き」と称して連載物を書かせていただいたこともあります。なんにでも首を突っ込んでいたようです。
 そして1997年から4年ほど、会員の皆さんに支えられて理事長の役を務めました。その後、副理事長、財政部長や文化活動などを20年余り続けております。でも、正直なところは「皆さんの後ろをトコトコとついて行った」というのが本音です。これは謙遜でもなんでもありません。保険医協会は飽くまでも開業医が中心の団体です。勤務医の私には、いくら診療所の所長をしていても、経営のこと、人事のことなどはやはり他人事です。他人事ですから協会の世界は皆さんから学ぶことが多くありました。しかし7年ほど前、ひょんなことから私も開業することになり、やっと色々なことが自分の問題として分かるようになりました。
 私の人生の中で埼玉県保険医協会との関わりは本当に深いものがあります。30代で理事になり、先輩の諸先生方には本当にお世話になりました。色々教えていただきましたし可愛がっていただきました。勤務医だけの世界では到底経験しない人間関係を築かせていただきました。これは本当に私の宝です。ありがとうございました。

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